タイにおけるカカオの歴史
「タイでチョコレート?」
そう思う人は、きっとまだ少なくないのではないでしょうか。
しかし実はいま、タイ産チョコレートが静かに、そして確実に注目を集め始めています。
ここ5年ほどの間に、タイ各地でクラフトチョコレートブランドが次々と生まれ、その中には国際的な賞を受賞するものも現れました。
特筆すべきは、それらの多くがタイ国内で育ったカカオ豆を使用している点です。
これは単なる食のトレンドではなく、農業や地域、そして人の生き方とも深くつながる物語でもあります。
目次
「新しい」のに、実は昔からあった作物
タイ・チョコレートは、よく「新しい文化」と言われます。しかし実際には、カカオは100年以上前からこの国に存在していました。
約100年前、ヨーロッパでチョコレートが工業化され、アフリカのカカオ農園で過酷な労働が行われていた時代。その頃のシャム(現在のタイ)は、まったく異なる選択をしていました。
ラーマ5世の治世下で奴隷制を廃止し、国を挙げて農業の近代化に取り組んでいたタイ。農務省は新しい熱帯作物を探し、試験栽培を進める中で、カカオも導入されました。
最初のカカオは、1903年(仏暦2446年)にボルネオ島からタイへ渡ってきたとされています。しかし、その後の栽培は試験農園レベルにとどまり、情報も農業関係者の間だけで共有されていました。
政府は「可能性のある作物」として注目していたものの、当時は市場も技術も整っておらず、カカオが広く根付くことはありませんでした。
失われていったカカオの時間
1970年代になると、再びカカオへの関心が高まります。マレーシアから新しい品種が導入され、南部クラビー県やチュムポーン県の試験場で、長年にわたる研究が行われました。
やがてカカオは、南部のココナッツ農家に「副収入作物」として配られるようになります。
しかし、ここで大きな壁に直面します。
カカオは熱帯に適し、育てやすい作物ではあります。しかし、「良いカカオ」を育てるには、非常に繊細な管理が必要でした。
当時は、
- 生豆の価格が安い
- 市場が確立されていない
- 発酵や乾燥といった加工知識が農家まで届いていない
といった問題が重なり、多くのカカオ農園は次第に放置されていきました。
その結果、数えきれないほどのカカオの木が枯れ、切り倒され、カカオは人々の記憶から静かに姿を消していったのです。
クラフトチョコレートが呼び起こした希望
転機が訪れたのは、世界的にクラフトチョコレートの潮流が広がり始めた頃でした。
「このチョコレートは、どこから来たのか?」そんな問いが、職人たちを産地へと向かわせます。
アメリカのクラフトチョコレートブランド Dandelion Chocolate の創業者の一人、トッド・メイソニス氏は、次のように語っています。
「今のチョコレート職人は、ただチョコレートを作るだけでは足りません。
カカオの原点を理解し、その価値をどう引き出すかを考える存在であるべきです。」
この考え方は、タイの若いチョコレートメーカーたちにも大きな影響を与えました。
彼らは海外ではなく、自分たちの足元に目を向け始めたのです。かつて植えられ、忘れ去られていたカカオの木。そこに、もう一度光を当てようとする動きが始まりました。
タイ各地に広がるカカオの個性
現在、かつての名残として残る古いカカオ農園は、ナコーンシータンマラート県やチャンタブリー県などに点在しています。
さらに近年、カカオ栽培は以下の15県へと広がりました。
南部から東部、東北部、そして北部へ。チェンマイ、チェンライ、ナーンなど、北タイでもここ数年で栽培面積が急速に増えています。
興味深いのは、土地ごとにチョコレートの味わいがまったく異なるという点です。
- チャンタブリー産:南国フルーツのような香り
- 南部産:潮風を思わせる複雑なニュアンス
土壌、気候、標高。それらがそのまま味になる――
まさに「テロワール」を感じるチョコレートが、タイでも生まれ始めています。
それでも、道のりはまだ長い
希望が見えてきた一方で、課題も少なくありません。
長年放置されてきたカカオの木の再生。
農家レベルでの発酵・乾燥技術の確立。
そして、世界のプレミアム市場に通用する品質管理。
コーヒー産業と比べれば、タイのチョコレートはまだ始まったばかりです。
それでも今、農家、チョコレートメーカー、研究者、シェフ、ショコラティエ――
多くの人が、この新しい(そして実は古い)道に関わり始めています。
チョコレートは、甘いだけの存在ではありません
タイ・チョコレートは、単なるお菓子でも、儲かる作物でもありません。
それは、土地と向き合い、人とつながり、失われた時間を取り戻していくプロセスそのものです。
マニタビが旅の中で出会ってきた、コーヒー、カカオ、はちみつ、手仕事――
それらと同じように、チョコレートにも確かな「物語」があります。
この物語は、まだ途中です。けれどきっとこれから先、タイのチョコレートは世界に向けて、自分たちの言葉で語り始めていくでしょう。
